INTERVIEW
2005-10-20
ちゃんと元副社長、井上盛夫氏
ちゃんと元副社長、井上盛夫氏
“好きな人間だけの集団”を作り
3年間で創造した多様な価値
井上盛夫氏はちゃんとの副社長として、岡田賢一郎氏とともに「ちゃんと」の東京進出を手がけた人物として知られる。2002年にちゃんとから独立、ソルトコンソーシアム株式会社を設立して3年、東京や大阪で数多くの話題の店舗の経営、プロデュースを手掛けてきた。“計画立てて動く”ことを辞め、“好きな人間だけの集団”で仕事をし始めた井上氏の半生から、井上氏のプロデュース力の源を探った。
■最新店「あきら」が中目黒にオープン
編集部: 10月3日、井上さんがプロデュースされた「焼鶏 あきら」が中目黒にオープンしましたね。 井上氏: 「あきら」は弊社が運営するお茶ノ水のカフェ「IKOI」にいたスタッフ、清水明の提案がきっかけでできた業態なんです。彼はある日、僕を千葉の鶏料理店まで連れていって、「自分はこんな店をやってみたいんです」と言ってきたんです。ごっつうれしくてね。実は、実際に提案する人間というのは以外に少ないものなんですよ。三軒茶屋に物件が出たので僕なりに“あれをこうしてこうしたらこうなるかなあ”という感じでプロデュースに関わり、「骨付鶏 あきら」がオープンしたのが2003年12月。しかし、運悪くオープン3日目に鳥インフルエンザ問題が話題になってしまいまして。スタッフには「とにかくしゃーない、どうせあかんならこの時期にうまいものを研究せい、学生にただで飯くわせ」と言っていましたね笑。そしたら本当に料理がおいしくなってきて、徐々に客も入るようになりましたよ。今回、その「あきら」が中目黒に移転したんです。 編集部: 2002年にちゃんとの副社長をお辞めになってから「ぼちぼち」をはじめ、この3年で様々な店舗の経営、プロデュースを手掛けていらっしゃいますね。 井上氏: 30歳でちゃんとに入って、辞めたのが35歳。辞めた時は漠然と一、二軒は店作ろうかなとは考えていましたが、キャンパスが真っ白の状態から始めようと思っていたので、ほとんどなにも考えずに独立したんですけどね。以前は何年でどうしようこうしようと考えながら動いていたんですけど、そういう考え方は捨てたんです。実は20歳ぐらいの時、だいたい35歳になったらどう生きていたいかを頭に描いていたんです。そのイメージから逆算して、いま何をやるべきかを常々考えてきましたね。 編集部: 20代の頃、ご自身の35歳をどう描いていたのですか。 井上氏: あれが欲しい、これが欲しいという物欲はもちろんありましたし、海外で仕事をしたいとか、100億円の商いをしたいとか、いろいろ描いていましたよ。それをベースに例えば100億円の仕事をするなら、じゃあまずは10億円の商いができる人と仕事をしてみようと逆算していくわけです。ちゃんとを辞めて、35になった自分を振り返った時は、ある程度理想には近づいているかなあとは感じました。 ■大学時代に喫茶店を共同経営し始める 編集部: では時代をさかのぼってお聞きしたいと思います。井上さんが飲食に携わったのはいつごろですか。 井上氏: 大学二年の時に同級生と喫茶店を共同経営したのが飲食との出会いですね。映画村の横にマージャン仲間の溜まり場になっていたある喫茶店があったんです。オーナーのおじさんとは仲良しだったのですが、ある時、「お前ら、喫茶店やってみないか」という話になって、やってみることになったんです。いわゆる街の喫茶店ですね。当時は“フレッシュジュースとスパゲティの店”とか言ってましたから、いま思えばいい加減な店でしたね笑。ただ、観光地でしたから週末は観光客で賑わいましたね。その喫茶店ではコーヒーを運んだり、簡単な料理を作ったりはしていましたけど、僕はずっと客としゃべってばっかりでした。だからというわけでもありませんが、いまでも僕自身はサービスも料理もできないんです笑。 編集部: 原点と言えそうですね。 井上氏: まあそうなんですけど、一年で飽きてしまったんです。その後、プロモーションやSP、イベント事業を手掛ける会社、株式会社禅を立ち上げたんです。当時は学生起業が流行っていた時代でしたからね。最初は飲食店にタバコを置いてもらうセールスプロモーションの仕事をしていました。関西で流行っている店で仕事ができるし、夏はビーチ、冬はスキー場に行ったりしてましたから、ほんと楽しかったですね。FM局開局のイベントなんかもやりました。まさにバブル真っ只中でしたね。そうこうしているうちに須磨海岸に開いたビーチハウスが当たったんです。 編集部: いわゆる海の家ですか。 井上氏: ある知人との出会いがきっかけで海の家を出店することにしたんです。しかし、一年目は見事、失敗に終わってしまったんですよ。でも、どうしてもリベンジしたくて考えたのが“はじめから黒字にする方法”でした。夏が終わり、一年目が終わった瞬間からスポンサー探しを始めました。土日にきれいなおねえちゃんがくるビーチハウスにすれば自然と男性も寄ってくるようになる。スポンサーも付き、二年目には見事、大爆発しましたね。結局150坪、50坪、50坪の三軒のビーチハウスを出店しました。 編集部: すでに3軒ですか。 井上氏: この経験から“自分が創造したものが成功するのはなんて楽しいことなんだろう”と実感しましたね。しかもイベントなどは企画しても一日終わってしまいますが、飲食店なら長く残る。自分の思いをより伝えることができるのは飲食店だなと当時から考えていました。 編集部: 大学生で起業し、就職活動などはせずにそのまま会社経営を続けるわけですか。 井上氏: その後も割烹や洋服屋の経営など、自分で手掛けた事業はうまくいっていたんですけどね、26歳の時、自分が保証人になっていた事業が失敗し、多額の借金を抱えることになったんです。こうなると、周りのみんなの態度が変わるんですよ。ああ、もう大阪にはいたくなくなと思って、東京に出てきたんです。 ■大阪から東京へ。ちゃんとを東京へ。 編集部: 東京ではまず何をされたのですか。 井上氏: 27歳で東京に出てきてからはパチンコ店とかボーリング場など、アミューズメント施設の企画を20件ほど手掛けました。でもその当時、パチンコ店の駐車場で子供が亡くなる事故が何件か続いたんです。そこで思わず考えたんですよ、「いったい俺はなにしてんのや」と。もともとWinWinで生きてきたはずなのに、気が付けばお金のためだけに仕事をしている自分がいる。30歳を目前にして悩みましたよ。そこで思い出したのは“自分はサービスが好き”ということでした。じゃあ、どうやってカタチにしようかなとアイデアをめぐらせていた時、「ちゃんと」を知ることになるんです。当時まだ、大阪で2、3軒だった時に客として行ったのですが、「これはいけるな」と感じたんです。 編集部: 「ちゃんと」との出会いは偶然なんですね。 井上氏: そのころ、生活の拠点は東京だったのですが、関西人ですから、どうしても東京の飲食店の「高い、まずい、人いっぱい」というが気になってしょうがなかったんです。そこで「ちゃんと」を西麻布に持っていって、こじゃれた店にすれば絶対当たると思いついたわけです。そこで勝手に自分でイメージして岡田さんと話したんです。 編集部: 突然企画を持ち込んだのですか。 井上氏: 岡田さんといろいろと交渉した結果、話はまとまりました。それまで僕はプロデュースとか経営が主な仕事でした。この企画も岡田賢一郎という強い商材をうまく組み立てるだけの仕事だったので成功はそう難しくないと考えていましたよ。逆に岡田さんという人は根っからの料理人で本当は経営は好きじゃない人なのに、当時は気が付けば料理ができない状況に陥りつつあったんです。お互いの長所と利害がうまく一致したんでしょうね。 編集部: いきなり副社長になるわけですね。 井上氏: もちろん、いままでいた社員にとっては面白くないですよ、外から来た人間がいきなり副社長ではね。社内に自分の価値を認めてもらわなければなりませんでしたから、まずは社内の構造改革に取り掛かりました。 編集部: 結果、「ちゃんと」は東京でブレイクするわけですね。 井上氏: そうですね。夢かなった5年間でした。しかし、5年もいると、どうしても考え方がズレてくるんですよ。最終決断をするのは、やっぱり僕じゃなくて岡田さんの役割でしたし。そもそも僕はものごとを客観的に見る癖があるんですが、飲食店はファッションと一緒で浮いた商売で時代が移り変われば、ニーズも変わる、会社の運営に関しても幅を広げたいと考えていたのですが、その辺で折り合いが付かず、僕が辞めることにしたんです。方向性の違いとしか言いようがありませんでしたね。 ■ソルトコンソーシアムを設立 編集部: そこで独立するわけですね。 井上氏: さきほども言いましたが、すべてを白紙にして独立したんです。重きを置いたのは、どうやったらストレスのない人生を送れるか、でした。人間は結局、好き嫌いと損得だと思うんです。仕事でもそうで、好きで得のある人と付き合えばストレスはありませんが、嫌いで得のない人と付き合えばストレスになる。また、好きで得のない人とはストレスはない。そうやって考えていって、自分は好きな人間だけの集団を作って仕事をしていこうと考えたのです。 編集部: 好きな人間だけの集団でまず手掛けたのが「ぼちぼち」ですね。 井上氏: まず、最初に関西人だから、お好み焼きは好きでしたし、やれば間違いなく当たるだろうぐらいに考えていました。そこで、すでに3軒あった「ぼちぼち」というブランドに出会ったんです。当時も店は流行ってはいましたが、単価が低い業態になっていました。そこでプロデュースに関わらせていただくと同時に、広尾店を開店させてもらうことにしたんです。 編集部: どのように単価を上げたのですか。 井上氏: いろいろ方法があるので、ひとことでは言えないのですが、単純に言うと3、400万円の月の売上を倍にする方法を考えたんですよ。広尾店に関しては、自分が住んでいる街でもあったので、自分自身が食事に困っていた場所でもありましたから、気軽に食事ができる温かみのある店にしたいなと思い、「ぼちぼち」特有のレトロ感イメージにプラスで、人が集まる仕掛けをした店のかたちを描いたんです。 編集部: すぐ近くには「居間」も経営されていますね。 井上氏: たまたまなんですけどね。物件を紹介していただいたんですが、お好み焼きはできたから、あとは普通にご飯が食べられるお店を作りたいなあと思いまして。明治通り沿いで行きやすい場所ですし、人に場所教えるときも楽なんですよ、あの店は。 編集部: 御茶ノ水にある「IKOI」に関してはどのようないきさつで出店されたのでしょうか。 井上氏: オーナーがデザインマンションを作るので、一階にカフェを作ってくれと言われたんです。しかし、投資するには厳しいと感じたので出資していただけるならやりますよという条件でオープンさせました。オーナーのイメージをお聞きしながら、学生時代に経営した喫茶店を思い出しながら作ったんです。思い浮かべたシーンは、学生街にあって学生たちにとっては、きれいなお兄さんやお姉さんが働いているちょっと背伸びができるカフェ、しかも就職したら二次会で使うような店をイメージしました。 ■「道頓堀極楽商店街」をプロデュース 編集部: プロデュース事業では「道頓堀極楽商店街」が大きな案件ですね。 井上氏: ソルトコンソーシアムを立ち上げた時にはすでに始まっていたプロジェクトだったんですが、オーナーがたまたま知り合いだったんです。テーマに掲げたのは、大阪の文化でした。大阪は食と笑いと劇の街なのに、そのすべての文化がだめになって落ちていた。大阪を元気にしよう、一度は大阪を出た大阪出身者として大阪にリベンジしようと考えて企画しました。また、これと同じ時期に「DIVIO+SALON1201」も手掛けました。友達がデベロッパーだったので、やるなら全部やらせて欲しいとお願いし、レジデンスとサロンをプロデュースしたんです。「道頓堀」のようなベタな業態とは全く違う、イケてる店もやろうと思ったんですよ(笑)。 編集部: ベタな店もイケてる店も両方できると。 井上氏: そもそも僕は同じことをやるのが嫌なんです。なんでも一から考えるのが一番好きですね。新しい企画を立てる時はいつもシーン、つまりそこに人がいる風景を思い浮かべるんです。もちろん、人がどのように利用しているかというイメージはできても、実際にどんなスタッフが働くか、どんなお客様がくるのかまでは予測できないので難しいですけどね。飲食店の経営は、こんなことまで起こるのかということまで本当に起こりますからね。 編集部: いつも、ご自身の頭の中ですべて完成してしまうのでしょうか。 井上氏: いえ、そんなこともないんです。僕が「こんな感じ」と言ったことにたいして、デザイナーや他のスタッフが出してくるアイデアを見るのも楽しいですよ。そうやって店を作っていくのが好きですね。 編集部: では最後にこれからの展開をお教え下さい。 井上氏: これまではお金をかけずに3年やってこれたなあという印象です。自分のキャラは50%ぐらい出せたかなと思います。今後のことは全然わかりません。自然にカタチになるんでしょうね。まあ、いま言えないことも含め、いろいろやりますよ。
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